あ、そういえば「子育て」やめてたんだ。
今朝、昨晩の台所の洗い物と畳まれていない洗濯物の山と
髪の毛と埃の落ちた階段を眺めながら思った。
あ、「子育て」やめてたんだ。
子供が朝に着る服がない〜と叫ぶ。
私は面倒だな〜、と思いつつ子供箪笥を見ると
一枚だけ入っていた。
「あるや〜ん。」
私の心の中は、「ああ、助かった。」とちょっとホッとする。
子ども「朝ごはん何〜?」
炊いた米しかない、味噌汁も作ってない。
野菜を切るのも面倒だ。
ホットケーキの素があったので、久しぶりに焼いてみた。
子供の一人はバター、もう一人はハチミツ。
米粉のホットケーキミックス粉だから、私の中の「子供に食べさせるもの基準」を70%は満たしてる。
子どもは普通に学校に行った。
洗い物の山を見ても、気持ちは落ち着いている。
だって今日は私の予定が特にないもの。
時間に追い込まれる日々に
スケジュール一杯の毎日に
「こうしなきゃいけない」こと辞めてみてる
「こうした方がいい」「こうすべきだ」ということもあえてしない
- いつ頃だったかな「子育て」辞め始めたのは
確か一年くらい前、まだ下の子が年長の時
周りの人たちの「頭の良さ」と「こうじゃなきゃオカシイよね」という
同調圧力に疲れてしまった。
なんとなく着ている服であったり
親として母としてこうあるべき、であったり
家には「子どものためにこういうものがあるのが当たり前」であったりと
そこで生きるための『素晴らしいルール』があった
その場所でのルールに必死に馴染もうとして
時にはそのルールからはみ出した人を「笑い飛ばしたり」
ルール通りにできない自分を必死で攻め立てた
- その通りにすることが「子育て」だと思っていた
『素晴らしいルール』に乗っ取った子育ては
わが子・自分でさえ、実は期待さえしていないことだった。
やってほしくないことなくらい。
「そのルールをこなせる私って素晴らしい!」
「こんなことまでできる私、素晴らしい母親!」
と完璧な家事ができたとして、
マニュアル通りの完璧な子どもとの会話ができたとして
その時に見えてくるものが
「自分の心の感情」しかなかったら、
その世界に「相手」が居ないことになる
「目の前のその子とそのお母さんとの関係」ではなくて
「素晴らしいお母さん!」というその人自身の偶像の中のお母さん
私はそんな、『一人完結型完璧お母さん』を目指していたのだ
“洗い物がたまり、洗濯物の山があり、埃と髪の毛の落ちた床”を見て
イライラしまくっていた。
だって、目指すべき「素晴らしいお母さん」からはみ出しているんだから。
- 素晴らしいお母さん基準がする「当たり前の家事」を辞めて見てどうなったか
家の中は散らかったままだ
普通に汚い
誰かが手伝ってくれることもない
(「私が頑張るのを辞めたら、こんな風に変わりました!」な事は書けない)
普通に汚い
わかった事は
素晴らしいお母さん基準の「当たり前の家事」をやったつもりでいても
実は昔っから「散らかった部屋」のままだったのかもしれない。
- 未だ「実験中」であり結論はまだまだ見えないという事
毎日子供は成長している
たまに「誰だっけ?」と思えるときもある。
そんな時は、私の主観で過去「こうだ!と思っていた事」と
今見て「こう変わったかなー?」と感じた事を
伝えたりしている。
それが子ども自身にどう届くかは、正直わからない。
だけどもう「子育て」辞めてたし(辞めてた事を忘れてた。)
今日は今日でこんな感じでいこうと思う。