無理なダイエットはもうおしまい!

ダイエット、無茶食い、過食、食べる事に悩みを抱える方のためのブログ

「笑顔になんてなれない」からの考察とアップデート

 

「笑顔の人に人は好感を示しやすいな。」という現象を

数々のところで再認識して来ました。

 

バレエの発表会

演者の子どもが笑顔であると観客からの拍手の量が違う

 

フリーマーケット

笑顔の人の呼びかけに足を止める人、そして購入

 

任意の団体でのトップの態度

一苦労する作業でもトップが笑顔だと

「この人のためなら」という信頼につながりやすい

 

などなど、他にもあるけれど

笑顔が人に与える現象について改めて観察することができた。

 

しかしだ

しかし

 

笑顔でいましょう

口角をあげましょう

目尻を下げましょう

 

などというテクニックで人から好かれたり

ある程度自分の心象風景も変えられるところまでは行けたとしても

 

やはり

自分が心から「嬉しい!」と感じる笑顔は

 

顔の表情筋でどうにかなるものではなく

まるで全身運動のように細胞の一つ一つが嬉しい!状態になっている

 

それにまた気がついた。

 

笑顔のアップデート

私の方法論として全身運動としての笑顔を覚えておく。

 

 

そして

なかなか「笑顔になんてなれない」人のために

 

あなたの周りには「作り笑顔」の達人がいるのかもしれない

全く笑えない状況にいるのかもしれない

もしかしたら笑顔でいることを自分で禁止しているのかもしれない

 

ただやはり「笑顔」を必要としているなら

解決策は

 

「笑顔」の人のいる環境に身を置くこと

 

できるだけ

笑顔の人と出会うこと

笑顔の人の動画を見ること

笑顔の人を見つけること

 

それだけ

 

「心からそれをすることが嬉しくてたまらない!!!」人は

世の中に居て

それを見つけ出す

 

いい笑顔を少しづつ分けてもらう

そんな感じで

自分自身の笑顔を作り出していけばいい

 

 

自己信頼が一番難しかった 〜「食べる」以外のことから始めよう〜

自分を信頼すること

 

私のことを私が信じること

 

それが一番難しかった。

 

 

私が「すること」にOKであること

何かを「しよう」と考えて“いい”こと、行動して“いい”こと

辛いと思う状況ででも「しない」でいること

など、いろいろあるけれど

 

兎にも角にも

「自分を信頼する」ただそれが一番難しかった。

 

それがありありとわかった時は狼狽したし

育まれてこなかった経緯もわかると

今の状態も少し納得がいったような

そんな気もした。

 

(食べることに問題を抱えている人は

同じようなことがあるんじゃないかな。)

 

 

ただの日常ででも

大切な日であっても

自分一人だけ食べるもののことで何か暗さを抱えてて

 

「そんなことも出来ない位」な人間なんだなって

こんなに自分の「どうしようもなさ」を知って

ミットモナイ今の自分で始められることを

 

私が探すしかないんだなってわかった。

 

 

 

ただ、今まで散々「食べること」にルールを作って来て

 

(よく噛もうとか、本当に食べたいものをとか

綺麗なお皿でとか、爪磨きで意識をそらそうとか

糖質制限とか他いろいろ)

 

そこで出来ない自分を散々見て来たから

「食べる」以外に目を向ける

 

一つのことが「出来ない」からって

それが私の全てではないって頭にわからせることをする

 

 

最初は視野が狭くなって「出来ない」自分を次々と頭が見せてくるから

苦しくて仕方がないけど

 

今すぐ何かが出来なくても

何かをし続けてみる

 

何かが「できる」ようになるまで

何年もかかってもやり続けてみる

そして、それを人と比べない

 

 

実は

私は、昨日やっと「腹筋」ができました。

今まで全くといっていいほどできませんでした(笑)

それはそれは、人から笑われるくらい

 

どれほど弱かったかを知っているので

昨日初めてできた腹筋運動に

自分で少し感動するくらいでしたよ

 

満腹もわからないから


「食べてるなー」とはわかるけれど

どこか他人のような感覚


記録をしてみると

意外なほど食べている事に気がつく


あんなに食べてるのに

満腹感が無いなんて

私の満腹中枢は狂ってるの?


という事から考え始めたこと。



それは

「脳幹の過緊張状態」という仮説



自律神経の働きを感じにくくなっているのは

体に緊張があるから。


コリがあるから。


副交感神経を働かせたい。




私が最終的に欲しいのは「落ち着いた」状態


過食をした後は

とにかく「ぼーっ」としている。


ならば、先に「ぼーっと」できる状態があれば良いということ。



これがわかった理由としては


「食べる」行為の最中に起こっていることを

とにかく観察してみた結果のこと。


胃のあたりの緊張もかなりあった。

ギュッと胃が身構える感覚。


頭の中から首にかけての

とにかく硬い感覚。


それが「過食後」には

感じなくなっていた。

どうやらそれが私には必要らしい。




どうしてもコンビニで何か買い漁ろうとする自分がいた時に

「脳幹をゆるめる」ことを思い出してみて


目の前の食べ物から

自分の体の感覚に意識を変える



「何かを食べる!」という強迫に似たものが

少しでも減ったら


その場所から離れてみる


無理やり我慢!をするのではなく


ほんの少しだけ

食べた後に欲しい感覚を思い出してみる。



今私の体は「落ち着く事」を必要としているんだ、と自分に教えてあげる。



外見のコンプレックス

外見のコンプレックスはありますか?

 

私はありますよ。

 

昔のことを書くわけではないですが

親からは

「ここがこうだったら良かったのにね。」

「もっとこうだったら良かったのにね。」

「他の兄弟はこうなのに、どうしてあなただけこうだろうね?」

等々

 

体の外見については色々細々と言われていました。

 

まして、

それが自分自身を縛っていたとは思いも寄らずでしたが

こうした細かい言葉がいつのまにか心の傷となり

私の体にはこの小さな傷がたくさんあることに気がつきました。

 

この傷は、いつのまにか

『可愛い子にはわかりもしない・・・』という

怒りを持った考えになり、

 

可愛い子の前では

あえて自分自身をさげすみ、あざ笑ったりする行動へと繋がることもあり

 

ますます自分を傷つけるスパイラルに入ってしまったりもありました。

 

 

ところがなのです!

 

全く同じように人から言われたりしていたとしても

 

それに屈しない人もいます、いました。

 

 

その人は、顔面を骨折したことがあるそうなんですが

 

誰よりも、その外見を良くしようとしていました。

 

自分自身をキレイでいさせるために誰よりも貪欲に学んでいました。

 

彼女が日に日にキレイになっていく姿が目に見えてわかっていきました。

 

 

そのような姿を見て、

私は自分のコンプレックスから逃げているところが明確になりましたね。

 

妬みを持つこともあっていいし

脂肪のついたお腹もお尻もあるけれど

 

自分もその彼女のように

“何も諦めることなく”

自分のペースて外見んだって内面だって磨いていけばいいんだと

教えてもらいました。

 

コンプレックスは誰にだってあるもの

それに屈せず

コンプレックスは自分自身がもっと良くなるための材料として捉えて

どんどんじゃんじゃん磨いていけばいい

 

 

一体何を麻痺させているの?

過食の症状が出た時に

冷静に何を私は「飲み込み」「麻痺」させているのだろうかと

 

過食症状が出ながら

まあ、つまり食べながら

何を欲していたのかなと自分自身を観察して見ました。

 

 

・自己否定

 

とりあえず

自己否定、まず否定から入っていること

 

そこには他人との比較

自分が思い描く理想の自分との比較

まず「認められない」と言うこと

 

・悩みがある時

 

「どうしようどうしよう?」

「え、え、え、、、」となった時

 

とにかく食べてリラックスさせたい時ですね

 

・手持ち無沙汰な時

ただ、その状況に流されるような時

 

・汚い感情に蓋をする時

自分の中にある

ドス黒い感情がある時に、

「そんなこと思っちゃダメ〜!」とか

「そんなんじゃ嫌われちゃう〜!」といういい子ちゃんが暴れる時

 

 

 

麻痺させることに慣れてしまうと

 

自分にとってメリットもデメリットも

他人にとってメリットもデメリットも全て

わからなくなってしまうので

 

少しずつでも

「私」という人間が

何を感じているのかを知るということがステップになっていくのだと思います。

 

人の「正しさ」に当てはめるのではなく

「私」が感じていることが何よりも「正解」であることを

私自身が認めてあげましょう。

「〇〇のおかげ」って本当?

「好き勝手できるのは〇〇のおかげ」

 

だから

 

「〇〇に感謝して過ごしましょう。」

 

よく言われる言葉です、特に少し高齢の方とお話しすると

このような話になります。

 

これって、その通りだと思いますが

 

何かが『できる』のが〇〇の『おかげ』なんでしょうか?

『できる』ことのみが『おかげ』と感謝なんでしょうか?

 

 

 

「好き勝手できるのも〇〇のおかげ」だし

「好き勝手“できない”のも〇〇のおかげ」だし

 

「好き勝手できるのも〇〇のせい」だし

「好き勝手“できない”のも〇〇のせい」だし

 

 

結局のところ、できようができまいが、感謝しかないんじゃないの?って

思います。

 

 

しかしながら、この発想だと

「〇〇のおかげ」で動かされている私なのです。

「〇〇のおかげで何ができるか」と環境に作用される自分なのです。

 

大きなことを言うと広大な宇宙の中でただ生かされているに過ぎないわけですが

 

それでもその中で

「何をしたいか」と

私自身が決めていくと言うことが

環境に左右されない

自分自身の核になる部分なのではないでしょうか。

 

 

その環境の中での最適解を見つけるのか

その環境の内外に関わらず

とことん自分自身のを肯定し「したいこと」を選び抜く

 

 

そもそも好き勝手と言うけれど

誰にとっての好き勝手かと考えると

 

「あなた」の「すること」が「わたし」のイメージを超えてしまっているから

「わたし」にとってまるで「好き勝手」しているように見えるだけであって

 

想像を超えたことをする相手に何かしらの違和感を

自分が感じているだけなんじゃないかなと思います。

ネガティブ真っ盛りは生きさせようとするサイン

ただいま

これを書いている私は、ネガティブ真っ盛り中です

 

このネガティブさに

自分で暗い気持ちになりますが

 

この暗い気持ちは

体が生きさせようとしているサインだなと思うのです

 

脳や腸の神経伝達物質的に考えてみたり

今までの偏食で枯渇した栄養素のため沸き起こる思考かなと考えてみたり

冬になったため、また気圧の関係かと考えたりはするのですが

 

まだまだ体が生きさせようとしているんだなと思うのです

 

 

どこかの誰かさんが

今ネガティブで、何かが嫌で嫌でたまらなくて

起き上がることさえできなくても

 

「大丈夫」なネタが実はゴロゴロ転がっていることがあります

あなたに何が合うかは、知り得ませんが

変えられることができるんです

 

私が知っていて、一番簡単なのは

言葉を変えること

 

「できない」→「できる」→「当たり前」

 

最初は言葉だけを変えても

何にも起こらないどころか

できるって思ったのにできていない現実を突きつけられて

より一層葛藤することもあるかもしれません

 

それでも

生きようとしている大きな事実があります

 

まだまだ

「ある」が「今ない」状態なだけ

 

それだけなんです