無理なダイエットはもうおしまい!

ダイエット、無茶食い、過食、食べる事に悩みを抱える方のためのブログ

ネガティブ真っ盛りは生きさせようとするサイン

ただいま

これを書いている私は、ネガティブ真っ盛り中です

 

このネガティブさに

自分で暗い気持ちになりますが

 

この暗い気持ちは

体が生きさせようとしているサインだなと思うのです

 

脳や腸の神経伝達物質的に考えてみたり

今までの偏食で枯渇した栄養素のため沸き起こる思考かなと考えてみたり

冬になったため、また気圧の関係かと考えたりはするのですが

 

まだまだ体が生きさせようとしているんだなと思うのです

 

 

どこかの誰かさんが

今ネガティブで、何かが嫌で嫌でたまらなくて

起き上がることさえできなくても

 

「大丈夫」なネタが実はゴロゴロ転がっていることがあります

あなたに何が合うかは、知り得ませんが

変えられることができるんです

 

私が知っていて、一番簡単なのは

言葉を変えること

 

「できない」→「できる」→「当たり前」

 

最初は言葉だけを変えても

何にも起こらないどころか

できるって思ったのにできていない現実を突きつけられて

より一層葛藤することもあるかもしれません

 

それでも

生きようとしている大きな事実があります

 

まだまだ

「ある」が「今ない」状態なだけ

 

それだけなんです

 

「NO」と言ったことある?


「NO」と言ったことありますか?


自分の意志に基づいて。


後から泣いたことありませんか?


「本当は嫌だった」と。


自分の本心に気がつくのは、何かが終わってから。



ほんの一瞬

自分の意志を

他者や世間に委ねてしまったことから


生きていない自分を見つけてしまう



全てを

0や1で決めろということではなくて


反対に

グレーな部分

曖昧な部分しかないところで


「NO」という態度を取れるかかどうか



勝ち上がっていく、打ち勝っていくカッコいい姿ではないかもしれない


ただより静かに

「NO」と言える意志を持つこと


噛み合わない会話 

会話をしたいのに

なんて言っていいのかわからない

 

話したいのに

話せない

 

口を閉ざしてしまう

言葉を失ってしまう

 

聞き手が

聞き手自身のルールや常識や信念に相手を当てはめて

ただ言いたい一言を

むしり取ってしまう

 

話したい人が言いたかった一言は

そんな大したことじゃなかったりするのに

なんて言っていいのかわからないだけだったりするのに

それを聞く相手の中の信念が邪魔をしている

 

 

わかりやすい事例があった

「お母さんに捨てられる」泣いてそう訴えた子どもがいた

その子のお母さんは「あの子がルールを守らないから!」の一点張り

 

意思疎通のギャップが読み取れる

子どもは「自分そのもの」を大事にしてもらいたい

親は「社会的なルール」を守って欲しいだけ

 

子どもは自身の存在そのものを「私が可愛くないから」と言って

自分を否定することが生まれてきている

親はうまく育てられいないと感じる自分自身に対してイライラが募る一方だろう

 

お互いにとっての悪循環

全く噛み合っていない

 

 

うっすらと漂う自己否定を生む家庭環境

ごくごく平凡だからこそ、こんなの当たり前だと見過ごされる部分

どこにでもあるじわじわ締め付ける景色

 

一切あなたを癒さない仲間作り

「一切あなたのためになることをやめました

まずは私が面白いことを見つけます。

まずちょっと笑ってみたいんです

自分から。」と自分に言ってみた。

 

 

人のことばかりに気を使って

何もないのにルールに縛られて

 

何に気をとられているのかわからなくなる

 

「今日は食べてしまった

って思った時に

良いも悪いも言わない

もちろん“そのままでいいよ”なんて勝手なことも言わない

だって誰よりも変わりたいのはお互いにわかっているから

 

だけど

一人で暗く眠るなら

「あははっ!」って笑える仲間がいたっていい

 

共感もしないし

一緒に泣きもしない

かまってあげることは残念ながらできない

だけど

「あはは〜!」って“笑うことに無責任”になれる仲間がいたっていいじゃないか

 

 

そんな知り合いがいてもいいなと思う方は

どうぞ連絡をください

asounandax★gmail.com

(★を@に変えてくださいね。)

 

 

過食状態の乖離から戻ってくるために

最近、気になる言葉に「乖離」(かいり)があります。

 

過食をしている時

食べている真っ最中は、

目の前のことにも

自分の思考や感情にもどこにも意識がなく

ただ食べている状態になっていることがあります。

 

どこかで、自分自身が「乖離」しているということはわかるのですが

自分自身が戻ってくるときは

もうどうしようもなく食べ終わり

自己嫌悪という状態で戻ってきている場合が多いのではないのでしょうか。

 

ココニワタシハイナイ状態

 

そこまでして何をしようとしているのか

 

過去どこかでそうせざるを得ない環境があり

そうすることでしか自分を守れなかった経験が

 

ある時から癖になってしまった

 

ただそうなってしまった、そう考えられます。

 

そして実はこれは厳しい書き方になるのですが

 

別の側面として

どうしようもなく自分を傷つけることで

得られる幸福感に酔ってしまうという状況でもあります

 

自分を嫌悪することが

実は原動力になっていたり

行動力になっていたり

えもいわれぬ幸福感であったり

何かしらのメリットがあるから、そのクセをやめられないとも言えます。

 

(私の場合は

自己嫌悪した後の方が子どもに表面的に優しくできたということがありました。)

 

 

では乖離からどう自分を戻してくるのか?

 

その方法は、苦しいですが簡単です

 

とにかく「観察する」ことです

 

どんな誹謗中傷が自分の中に現れても観察する

どうしようもなく食べている時に

嫌になるような言葉が出ててきても観察する

 

この感情は今どこで「感じて」いるのか

この思考は私に何をさせようとしているのか

この言葉の先には何があるのか

頭でぐるぐるになってしまっていることを

とにかく「観察する」

 

ごちゃごちゃになって苦しんでいる自分と

それを責め立てようとする自分と

なんとか収めようと躍起になる自分と

そして乖離する自分さえも

 

それらをひっくるめて「観察する」

 

乖離する痛みさえもしっかりと感じ切ることとも言えます

 

 

もしもあなたがその過食状態であったとして「観察」ができたとして

 

その先に見えてくるものは

私には何かはわかりません

 

けれど少なからず

「観察する」ことができ始めることにより

確実にココロとカラダがつながりを持ち始めていきます。

 

 

責めない

わからないことや

できないことがあった時に


どう受け取るか



食べ物に頼る心が育つ過程に

自分を責める事が、引き金になっている事もあるようです



できないやわからないの

そのレベルにもよるけれど


過去に「そんなこともあるよね。」と

言ってもらえて来たかどうかや

「どうしたら良くなるのかな?」と、

ゆったり考えることを教えてもらったり

した事があるかどうかは、


小さいけれど大きな違いになっていったようです。




ただ「ソレができるようになるコト」だけを

押し付る教育


でまた、その「ソレ」自体も人から押し付けられて来たもので


たとえできたとしても、押し付けた人はソレを見向きもしない


それこそ

「そんな事もあるよね。」と過去に傷ついたひとに今言いたい。




閉じこもり狭くなりがちな

日々食べる事に関する思考の中で


頭の中を柔らかくしていく“人の言葉の力”を

ほんの少しずつでも借りていく



わからない

できないを


無関心に放っておくのではなく

かといって一方的に言い立てるのではなく


とにかく自己も他者も責めずに


「何が引っかかっているのかな」や

「どうやったら切り抜けられるかな」

「どうやったらピンチをチャンスに変えられるかな」なんてことを考えていく


できないや

わからないが

反対にチャンスであるとも言えるってこと



自分自身を含めて“人のせい”にするのは

苦しくなるからもう辞めていいですよ。



責める事しか考えられなかったその心の中は 

ちゃんと変えられる。


まずは自分を責めない。


「私は価値のある存在だ」


この文章をなんの抵抗もなく読めますか?


「私は価値のある存在だ。」




これは
自己肯定感の言葉になります。

この文章に対して

モヤモヤしたり
嫌な感じがしたり
涙が勝手に出てきたりする方も

いるかもしれません。

反対に
「当たり前ですが何か?」と
言う方もいるかもしれません。


あなた自身が価値のある存在だということを
『自分自身で』認めているかどうか

このたった一言は

世界の見え方を180度転換させる位
強い力を持っています。

大きな土台となる
こころの基礎的な部分に訴えかける言葉

「あなたは価値のある存在だ。」

この自己肯定感

一番初めは親が子どもに与えるものではあるらしいのですが、
なにかしら“食べるものに頼る”事がある人は
これが薄いのかもしれません。


何かが人より出来ることや
何かを持っていることでもなく
失敗したり
人から責められたりしたとしても

ただ私という存在そのものに対して
マル◯であるという事


この言葉に
なにかしらの抵抗を感じた人は
今から本気で作り出すタイミングかも知れません。

あなたはあなたであるということ

あなたは価値のある存在だということ

なによりも
自分自身でバカバカしいくらいに
認めていきましょう。