無理なダイエットはもうおしまい!

ダイエット、無茶食い、過食、食べる事に悩みを抱える方のためのブログ

一体何を麻痺させているの?

過食の症状が出た時に

冷静に何を私は「飲み込み」「麻痺」させているのだろうかと

 

過食症状が出ながら

まあ、つまり食べながら

何を欲していたのかなと自分自身を観察して見ました。

 

 

・自己否定

 

とりあえず

自己否定、まず否定から入っていること

 

そこには他人との比較

自分が思い描く理想の自分との比較

まず「認められない」と言うこと

 

・悩みがある時

 

「どうしようどうしよう?」

「え、え、え、、、」となった時

 

とにかく食べてリラックスさせたい時ですね

 

・手持ち無沙汰な時

ただ、その状況に流されるような時

 

・汚い感情に蓋をする時

自分の中にある

ドス黒い感情がある時に、

「そんなこと思っちゃダメ〜!」とか

「そんなんじゃ嫌われちゃう〜!」といういい子ちゃんが暴れる時

 

 

 

麻痺させることに慣れてしまうと

 

自分にとってメリットもデメリットも

他人にとってメリットもデメリットも全て

わからなくなってしまうので

 

少しずつでも

「私」という人間が

何を感じているのかを知るということがステップになっていくのだと思います。

 

人の「正しさ」に当てはめるのではなく

「私」が感じていることが何よりも「正解」であることを

私自身が認めてあげましょう。

「〇〇のおかげ」って本当?

「好き勝手できるのは〇〇のおかげ」

 

だから

 

「〇〇に感謝して過ごしましょう。」

 

よく言われる言葉です、特に少し高齢の方とお話しすると

このような話になります。

 

これって、その通りだと思いますが

 

何かが『できる』のが〇〇の『おかげ』なんでしょうか?

『できる』ことのみが『おかげ』と感謝なんでしょうか?

 

 

 

「好き勝手できるのも〇〇のおかげ」だし

「好き勝手“できない”のも〇〇のおかげ」だし

 

「好き勝手できるのも〇〇のせい」だし

「好き勝手“できない”のも〇〇のせい」だし

 

 

結局のところ、できようができまいが、感謝しかないんじゃないの?って

思います。

 

 

しかしながら、この発想だと

「〇〇のおかげ」で動かされている私なのです。

「〇〇のおかげで何ができるか」と環境に作用される自分なのです。

 

大きなことを言うと広大な宇宙の中でただ生かされているに過ぎないわけですが

 

それでもその中で

「何をしたいか」と

私自身が決めていくと言うことが

環境に左右されない

自分自身の核になる部分なのではないでしょうか。

 

 

その環境の中での最適解を見つけるのか

その環境の内外に関わらず

とことん自分自身のを肯定し「したいこと」を選び抜く

 

 

そもそも好き勝手と言うけれど

誰にとっての好き勝手かと考えると

 

「あなた」の「すること」が「わたし」のイメージを超えてしまっているから

「わたし」にとってまるで「好き勝手」しているように見えるだけであって

 

想像を超えたことをする相手に何かしらの違和感を

自分が感じているだけなんじゃないかなと思います。

ネガティブ真っ盛りは生きさせようとするサイン

ただいま

これを書いている私は、ネガティブ真っ盛り中です

 

このネガティブさに

自分で暗い気持ちになりますが

 

この暗い気持ちは

体が生きさせようとしているサインだなと思うのです

 

脳や腸の神経伝達物質的に考えてみたり

今までの偏食で枯渇した栄養素のため沸き起こる思考かなと考えてみたり

冬になったため、また気圧の関係かと考えたりはするのですが

 

まだまだ体が生きさせようとしているんだなと思うのです

 

 

どこかの誰かさんが

今ネガティブで、何かが嫌で嫌でたまらなくて

起き上がることさえできなくても

 

「大丈夫」なネタが実はゴロゴロ転がっていることがあります

あなたに何が合うかは、知り得ませんが

変えられることができるんです

 

私が知っていて、一番簡単なのは

言葉を変えること

 

「できない」→「できる」→「当たり前」

 

最初は言葉だけを変えても

何にも起こらないどころか

できるって思ったのにできていない現実を突きつけられて

より一層葛藤することもあるかもしれません

 

それでも

生きようとしている大きな事実があります

 

まだまだ

「ある」が「今ない」状態なだけ

 

それだけなんです

 

「NO」と言ったことある?


「NO」と言ったことありますか?


自分の意志に基づいて。


後から泣いたことありませんか?


「本当は嫌だった」と。


自分の本心に気がつくのは、何かが終わってから。



ほんの一瞬

自分の意志を

他者や世間に委ねてしまったことから


生きていない自分を見つけてしまう



全てを

0や1で決めろということではなくて


反対に

グレーな部分

曖昧な部分しかないところで


「NO」という態度を取れるかかどうか



勝ち上がっていく、打ち勝っていくカッコいい姿ではないかもしれない


ただより静かに

「NO」と言える意志を持つこと


噛み合わない会話 

会話をしたいのに

なんて言っていいのかわからない

 

話したいのに

話せない

 

口を閉ざしてしまう

言葉を失ってしまう

 

聞き手が

聞き手自身のルールや常識や信念に相手を当てはめて

ただ言いたい一言を

むしり取ってしまう

 

話したい人が言いたかった一言は

そんな大したことじゃなかったりするのに

なんて言っていいのかわからないだけだったりするのに

それを聞く相手の中の信念が邪魔をしている

 

 

わかりやすい事例があった

「お母さんに捨てられる」泣いてそう訴えた子どもがいた

その子のお母さんは「あの子がルールを守らないから!」の一点張り

 

意思疎通のギャップが読み取れる

子どもは「自分そのもの」を大事にしてもらいたい

親は「社会的なルール」を守って欲しいだけ

 

子どもは自身の存在そのものを「私が可愛くないから」と言って

自分を否定することが生まれてきている

親はうまく育てられいないと感じる自分自身に対してイライラが募る一方だろう

 

お互いにとっての悪循環

全く噛み合っていない

 

 

うっすらと漂う自己否定を生む家庭環境

ごくごく平凡だからこそ、こんなの当たり前だと見過ごされる部分

どこにでもあるじわじわ締め付ける景色

 

一切あなたを癒さない仲間作り

「一切あなたのためになることをやめました

まずは私が面白いことを見つけます。

まずちょっと笑ってみたいんです

自分から。」と自分に言ってみた。

 

 

人のことばかりに気を使って

何もないのにルールに縛られて

 

何に気をとられているのかわからなくなる

 

「今日は食べてしまった

って思った時に

良いも悪いも言わない

もちろん“そのままでいいよ”なんて勝手なことも言わない

だって誰よりも変わりたいのはお互いにわかっているから

 

だけど

一人で暗く眠るなら

「あははっ!」って笑える仲間がいたっていい

 

共感もしないし

一緒に泣きもしない

かまってあげることは残念ながらできない

だけど

「あはは〜!」って“笑うことに無責任”になれる仲間がいたっていいじゃないか

 

 

そんな知り合いがいてもいいなと思う方は

どうぞ連絡をください

asounandax★gmail.com

(★を@に変えてくださいね。)

 

 

過食状態の乖離から戻ってくるために

最近、気になる言葉に「乖離」(かいり)があります。

 

過食をしている時

食べている真っ最中は、

目の前のことにも

自分の思考や感情にもどこにも意識がなく

ただ食べている状態になっていることがあります。

 

どこかで、自分自身が「乖離」しているということはわかるのですが

自分自身が戻ってくるときは

もうどうしようもなく食べ終わり

自己嫌悪という状態で戻ってきている場合が多いのではないのでしょうか。

 

ココニワタシハイナイ状態

 

そこまでして何をしようとしているのか

 

過去どこかでそうせざるを得ない環境があり

そうすることでしか自分を守れなかった経験が

 

ある時から癖になってしまった

 

ただそうなってしまった、そう考えられます。

 

そして実はこれは厳しい書き方になるのですが

 

別の側面として

どうしようもなく自分を傷つけることで

得られる幸福感に酔ってしまうという状況でもあります

 

自分を嫌悪することが

実は原動力になっていたり

行動力になっていたり

えもいわれぬ幸福感であったり

何かしらのメリットがあるから、そのクセをやめられないとも言えます。

 

(私の場合は

自己嫌悪した後の方が子どもに表面的に優しくできたということがありました。)

 

 

では乖離からどう自分を戻してくるのか?

 

その方法は、苦しいですが簡単です

 

とにかく「観察する」ことです

 

どんな誹謗中傷が自分の中に現れても観察する

どうしようもなく食べている時に

嫌になるような言葉が出ててきても観察する

 

この感情は今どこで「感じて」いるのか

この思考は私に何をさせようとしているのか

この言葉の先には何があるのか

頭でぐるぐるになってしまっていることを

とにかく「観察する」

 

ごちゃごちゃになって苦しんでいる自分と

それを責め立てようとする自分と

なんとか収めようと躍起になる自分と

そして乖離する自分さえも

 

それらをひっくるめて「観察する」

 

乖離する痛みさえもしっかりと感じ切ることとも言えます

 

 

もしもあなたがその過食状態であったとして「観察」ができたとして

 

その先に見えてくるものは

私には何かはわかりません

 

けれど少なからず

「観察する」ことができ始めることにより

確実にココロとカラダがつながりを持ち始めていきます。